【第5号】松本中学校庭の松本城天守

松本城天守閣の取り壊しを求めて、筑摩県は明治3年(1870)8月に陸軍省に伺書を出した。天守閣払い下げの許可を受けた県は、民間人に落札した。それに待ったを掛けたのが、下横田町の28歳の市川量造。天守閣で博覧会を開き、その収入で天守閣を買いもどそうとした。

6年11月10日に博覧会が開会、会期を10日延長して12月24日に終了。来場者は、毎日4、5000人をくだらなかった。博覧会は9年まで5回ひらかれた。筑摩県が長野県へ合併されると、城は荒れるにまかせられた。

明治33年(1900)1月の長野県会は、松本城本丸を松本中学校の運動場にすると議決。校舎は二の丸にあり、小林有也校長はこのとき45歳。翌年6月、校長と松本町長らは、県と天守閣修復の相談をし、8月13日に「松本天守閣保存会」を発足。事務所を中学校内に置いた。

36年に始まった修理にあたり、理事に就任した校長は、寄金募集に尽力しただけでなく、工事現場にも出入りするなど積極的に活動した。資金面で苦労が大きかったという。修理・保存工事は大正2年まで行われ、完成したのは、有也校長の死の10か月前である。

市川量造と小林有也校長のレリーフが松本城本丸庭園内にある。昭和36年(1961)に建立されたものだ。

筆者紹介 : 小松 芳郎