亡くなった元同窓会長・穂苅甲子男さんにはいくつかの「顔」があった。戦後復興に尽くした実業家で経済人。日中友好の懸け橋を担った文化人。カナダの美しい自然やゴルフも愛した。
旧満州(現・中国東北部)の国境警備に当たっていた昭和20年8月8日夜半、旧ソ連の急襲に遭った。敗戦を知らないまま捕虜の身に。極寒の地で鉄道建設のための強制労働をさせられた。戦友の1人に俳優の故・三橋達也さんがいた。
引き揚げた昭和21年12月29日の翌日から自宅の土蔵にこもり、記憶を頼りにザラ紙に鉛筆を走らせた。体験を書きつづって世に問い、シベリア抑留者の帰還促進運動を起こそうとの思いからだった。GHQ(連合国軍総司令部)の占領下、米ソの対立という内外の情勢から『シベリア抑留記』が日の目を見るまでには、それから16年の歳月を要することになる。
穂苅さんの思索と行動の原点は、極限状態の抑留生活を耐え抜いた心身の力にあった。「生死の境から生還できたのは、松本中学で知った自治の精神の賜物」と言い、「尚志社での学びと実践が、その後の精神の骨格を養ってくれた」とも語っていた。戦後70年。大先輩の言葉抄を追想する。