【第52号】御嶽山噴火

帰省した同期生を迎えての宴は県歌「信濃の国」の大合唱で終わった。歌詞に「御嶽乗鞍駒ケ岳」とある。作詞した浅井冽は1881(明治14)年から5年間、松本中学の助教諭として和文と歴史を教えた。松本城北側の住宅街の一角に生家跡がある。

浅間山だけではなかった。地元の人たちが崇敬と親しみの念を込めて「お山」と呼ぶ御嶽も実は活火山だった。噴火被害としては戦後最大の被害となった。噴煙の絶えない山頂一帯で行方不明者を捜索する様子が連日、メディアで報じられている。

火山性微動の増加という予兆や情報を、登山に生かすことはできなかったか。噴火警戒レベルは5段階のうち最も低い1(平常)だった。その表記に「安全」という思いを上書きしてしまったのかもしれない。「われわれの噴火予知はこんな程度のもの」。専門家の自嘲にも似た談話が当初、伝えられた。

大自然に比べれば、人間の営みなど寸刻の極みである。予知ならぬ「後知」の無力を思うも、火山研究は未解明の部分が多い。「古来山河の秀でたる国は偉人のある習い」と歌い上げる「信濃の国」。活火山の御座の連なる県土から新たな研究分野に挑む後進の出現を待つ。

筆者紹介 : 伊藤 芳郎