下川 裕治(25回)
旅行作家
高校時代は山岳部に所属していた。すべての山行に加わったわけではない。ザックの重みが肩の骨を押してしまい、血管や神経を圧迫して起こるザック麻痺になりやすい体質だった。荷物が少ない山行などを選んで登山路に汗をかいた。
松本深志の山岳部には、伝統的な登山ピッチがあった。50分登って5分休む……。その途中に、どんな絶景が開けても足を止めなかった。ストイックな歩き方だった。
卒業後、山行のつらさに、山から離れたが、数年後、また登りはじめた。やはり山の魅力が、山岳部時代に刷り込まれていて、それがむっくりと頭をもたげてきた感覚だった。
ひとりの登山だったが、律義に山岳部の登山ピッチを守った。それしか登り方を知らなかったからだ。50分登って5分休む。僕の山登りは律義だった。
そのピッチを崩したのは30歳をすぎてからだ。太陽の光に輝くみごとな稜線が広がったときは、岩に座って目を細めた。
しかし1回ピッチを崩すと、後は坂道を転がるように歩く時間が短くなり、休みが長くなる。年齢を重ねるごとにピッチが乱れる。しかし山岳部経験が自制をかけた。心を入れ替え、無心になって山道を登る。この感覚を体が覚えている。そこに戻れば、それほどコースタイムから遅れずに山頂に着くことができた。山岳部時代に覚えたこと……それは無心になって登山路を歩く感覚だった。
コロナ禍が席巻していたとき、僕はよく東京の高尾山に登った。僕は海外を中心に旅の本を書いてきたが、国外への旅は封印され、国内移動にも制限がかかっていた。東京都の西端にある高尾山は、東京に住む僕に唯一、許された山だった。
いつコロナ禍が収束するかわからず、自分の仕事がいつ再開できるのか……という不安のなかにいた。旅の本が発売できないから、収入は激減した。
そのなかで高尾山に登る。山歩きに没頭する。そうするしかなかった。高尾山登山が答えを導いてくれたわけでもない。下山し心が軽くなったわけでもない。
しかし僕は無心で山に登ることでコロナ禍を乗り切った。
これを高校時代に体に刻まれた財産というのだろうか。